"不死鳥の哲"と"人斬り五郎"〜渡哲也さんを偲んで
最初に見た渡哲也さんの映画はなんだったのだろうか…ふとそんな疑問がよぎり、フィルモグラフィを眺めている。
デビュー作の『あばれ騎士道』や二作目の『青春の裁き』は後から追っかけたので、石原裕次郎主演の『赤い谷間の決斗』かも知れない。これは、当時近所にあった三番館「洲崎映劇」の3本立てか4本立ての中で見た覚えがある。
おそらく、ふぅん、こういう新しいスターが出てきたんだ…くらいの印象だったように思う。
翌年1966年、大ヒットして評判の良い吉永小百合と共演した純愛映画『愛と死の記録』を見たのは、千田シネマだったかな?
つまり、主演作を見たのはこれが初めてだった。
同じ年に公開された『東京流れ者』は、ちょっと後になって出会うことになる。
その後は"第二の裕次郎"というキャッチで『嵐を呼ぶ男』『星よ嘆くな 勝利の男』『陽のあたる坂道』など裕次郎のヒット作のリメイクが続いたが、1968年に代表作のひとつである『無頼』シリーズが『無頼より 大幹部』を皮切りに始まる。
しかしまだ子供だった私は、石原裕次郎の『二人の世界』『帰らざる波止場』『夜霧よ今夜も有難う』などのムードアクションに夢中で、"人斬り五郎"と出会うのもまだ先のこと。
こうして日活がニューアクションからロマンポルノに方向転換した頃、銀座にあった名画座の老舗並木座で、ようやく『東京流れ者』を見たのだ。
なんじゃこりゃあ!
「流れ者に女はいらねぇ、女が一緒じゃ歩けねぇんだ」
"不死鳥の哲"のこの名台詞。
「俺の射程距離は10メートル」と言いながら、線路の枕木を目安に敵に向かって走りながら銃を放つ格好良さにしびれた。
鈴木清順の独特の映像美と世界観のもの凄い衝撃と共に、渡哲也さんが演じるアウトローに打ちのめされ、作品後追いの日々が始まった。
当時、ちょうどオールナイト映画が盛んで、毎週土曜日に池袋の文芸座と新宿ロマンで日活アクションの特集が上映されていた。
渡哲也特集と鈴木清順特集は、欠かさず見に行った。
ほかの特集も行っていたから、私は毎週末通い、時には帰って昼まで寝て、その後また夕方まで3本立てを見に行くような、若い女の子とは思えない週末の過ごし方をしていたのだ。
『無頼』シリーズは藤田五郎の原作を基に作られた、いわゆる実録モノで、日活アクションの世界で、スター渡哲也さんのポジションを確立させた代表シリーズだ。一作目は舛田利雄、三作目は江崎実生だが、4作は小澤啓一が監督した。
主人公は『東京流れ者』と同じく群れを嫌う一匹狼のヤクザ"人斬り五郎"で、真っ正直さが自分を追い詰める結果になっても筋を通す。カタギになろうとしても様々なしがらみから思うようにならず、自分の居場所を探し続けてさすらう苦い青春映画でもある。
ヒロインは松原智恵子だが、毎回違うキャラクターで純愛に徹したふたりの関係性もまたこの頃の青春映画の典型で、不良(アウトロー)とお嬢様、暴力と純愛のパターンとして、1970年代に社会現象となった『愛と誠』などの系譜に繋がる部分もあった。
小澤啓一の監督デビュー作となったシリーズ2作目『大幹部 無頼』のラストシーン、主人公のどぶ川の中の乱闘とその上のバレーボールする女子高生たち姿のは、青春の光と影を表す名シーンとなっている。
そして、さらに見逃している渡哲也さん主演映画を求めて、私の遠征が始まる。
東京ではなかなかかからない映画を、大阪と神戸に追いかけた。
『紅の流れ星』にようやく出会えたのは、大阪の通天閣の真裏にある新世界日劇だった。
今でもよく覚えているが、エレベーター降りると、扉もなくいきなりスクリーンが見える小さな映画館。客は酔いどれたおっさんたち。
よくまぁこんな所に若い女の子一人で行くなぁと、泊めてもらった大阪の親戚に言われた。
しかし、そんなことよりも、とにかく見たくてたまらなかった『紅の流れ星』だ。
『紅の流れ星』は、舛田利雄監督が、石原裕次郎主演で『望郷』をパクった『赤い波止場』という映画があり、これを数年後に渡哲也さん主演でさらに『勝手にしやがれ』のテイストも盛り込んだリメイク作品だ。
この頃の日活映画は洋画の名作のパクリが多く、それなりに面白かった。
しかし『紅の流れ星』は、それなりに、なんてもんじゃない。粋な台詞の応酬、鏑木創の名曲が、デュヴィヴィエもゴダールもびっくりの世界を作り上げている。
『東京流れ者』や『無頼』で演じたストイックなアウトローとは全く異なるキャラクターが出色で、これがこの2つにはさまれた時期にあるというのも興味深い。
尽くしてくれる恋人がいるにもかかわらずひと目ぼれした浅丘ルリ子に、「俺と寝ようぜ」とまとわりつく五郎。しかしいざその時になって、「今じゃない」と、弟分救出に向かうのはヒーローのお約束。
こういう軽さを渡哲也さんバージョンのキャラクターに設定した舛田利雄は、つくづくすごい監督だと思う。
この作品は、舛田利雄監督が日活を退社した渡哲也さんにより松竹で『さらば掟』というタイトルでまたまた作ったのだけど、これは前二作の出がらしのような映画で、ときめくものは何もなかった。
渡哲也さんの無駄遣いだ。
もうひとつ語っておきたい作品がある。
1976年に放送されたドラマ『大都会-闘いの日々-』。
石原プロモーションが初めて制作したテレビドラマで、石原裕次郎と2大スターの共演ということでも話題になった。
寡黙で照れ屋だが、犯罪を憎む心は人一倍強いという刑事を演じた渡哲也さんに、更なる深みを感じた。
自分の仕事のせいで妹がレイプされるという兄にとって重すぎる十字架を背負い、苦悩しながら犯罪に向き合う役は、一朝一夕でできるものではない。
健康面での試練を乗り越え、前年に評価の高い『仁義の墓場』で見せた壮絶な演技、積み重ねて来た人生の一層一層がここに集約されたのではないかと想像する。
そして、何が凄いって、この企画原案は倉本聰であり、脚本は倉本聰を始め、斎藤憐、永原秀一。監督は舛田利雄、澤田幸弘、村川透、小澤啓一ら日活ニューアクションを創り上げた面々で、アクションよりも人間ドラマに重点を置き、ある種のしんどさを伴う重厚で深みのある作品だ。
私は渡哲也さんに会ったことはない。
こんな大物と仕事する機会もなかった。
ただ、一度だけ、生の渡哲也さんを見たことがある。
1975年1月19日、当時TBSアナウンサーだった林美雄を筆頭に、当時20代の高田純、植草信和氏ら映画ファンたちが企画した「歌う銀幕スター・夢の狂宴」という伝説のステージだ。
林美雄の「パック・イン・ミュージック」のヘビーリスナーだった私は、必死でチケットをゲット。構成は高田純、演出が長谷川和彦って、凄すぎ。
ここで、大トリをつとめた渡哲也さんは、『東京流れ者』を歌いながら客席を通って舞台に上がった。
通路側の席をゲットできたのに、ただただ見とれるだけで手を出して握手もできなかった。
それでも、一夜限りの大イベントの客席で間近に渡哲也さんを見ることができたのはとても幸せだった。
合掌。
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